えっちゃんの中国美大留学日記 第71回ドイツ編「ロンドンでの初個展」

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展覧会ポスター

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ロンドンにて個展<Dialogue beyond 400 years – Etsu Egami solo show>をしました。テーマは日本とイギリスのコミュニケーション史の再考。この作品のインスタレーションで使用したおもちゃはドイツやイギリスなどで購入し、展示会場に運送したのですが、おもちゃの水鉄砲は空港にて武器だと誤解を招くと没収されそうになるなど、その過程も考えさせられました。

ロンドンでの展示会場にはオープニングにいろんな国の人々、ドイツ人、イギリス人、シンガポール人などとにかく多様で、いろいろな意見や感想をもらいました。例えば救急車がいくつも飾ってあるのですが、「誰が誰をレスキューしているのか、またはレスキューして欲しいと望んでいるのか、日本、イギリスだけでなく世界の複雑な関係の縮図を感じさせる」とロンドンビジネススクールに通うシンガポールの友人が話してくれたり、きてくれた人々とのディスカッションはとても考えさせられる時間でした。

アーティストが作品の前で

アーティストが作品の前で



<対話400年>江上越
1587年イギリス人、バハ・カリフォルニア沖でスペインのガレオン船を拿捕し、乗船していた2人の日本人を自分の船に加える。この2人が初めてイギリスを訪問した日本人となった。もし、この物語が日本とイギリスの交流の始まりならば、最初から交流は偶然と誤解を伴っていると言えるのではないだろうか。また1600年、英国人ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564-1620)はオランダの商船リーフデ号(De Liefde)に航海士として乗っていたが、船が日本に漂着したため、日本に上陸した最初の英国人となった。徳川幕府に重用され、彼は後半生を日本で過ごし、日本にイギリス商館を開設するのにも関わった。

日本とイギリスの交流が始まってからおよそ400年。400年の長きにわたる歴史を経て、振り返って見ると、多くの苦難を乗り越え、発展してきた。その中で、多くの初願と違う結果になった事実があり、それらの多くはコミュニケーションの行き違い、誤聴誤解によるものであろうと考えられる。誤解とは負の結果を起こす場合が多いが、時には進化へも導く。これは私の今回の制作の着眼点でもある。

日本がイギリスから軍艦、蒸気エンジン、線路などを輸入、高性能な電気製品、自動車、テクノロジーなどを輸出。西洋美術が日本に影響を与える一方、浮世絵や日本のカワイイ文化などイギリスで人気も高まる。鉄砲外交から始まり、経済・文化交流への進展。その奥にある行き違いを自分の作品(誤聴ゲームを中心として)で提示したいと思う。

会場では、日本とイギリスの交流に関する史料、写真など展示し、制作した誤聴の音の作品を設置、海の映像を放映する。会場では日英交流の日本語のキーワードを使って、日本語が分からないイギリス人に何に聞こえるかという参加型のゲームをし、コミュニケーションの障害と可能性を検証する。


江上越の「誤聴ゲーム」-一つの感覚ともう一つの感覚 千葉成夫
 江上越が「言葉(言語)」の作品で試みているのは、正確にいうと「誤解」ではなく「誤聴」の問題だ。もちろん「誤聴」は「誤解」の元になりうるから、それを「誤解」一般にまで拡大しても構わないといえば構わないけれど、そうするとちょっと話がズレてくるような気がする。「誤解」というと、例えばアルベール・カミュの著名な戯曲作品『誤解(Le Malentendu)』のように深刻な場合もあるが、日常生活では同音異義語を使って、時には駄洒落なども交えて、会話に彩りを添えるというようなことだって普通にある。例えば日本語の「誤解」という単語を音だけ発音すると「五階」も「碁会」も「ゴカイ(沙蚕・Ragworm)」も「五戒」も意味しうる。
 江上越自身が「mis-understanding」とか「mis-apprehension」ではなくて「mis-hearing」という語を用いていることに留意すべきである。つまり彼女は感覚(ここでは聴覚)のレヴェルでの「間違い」をテーマにしている。人の感覚はふつう「五感」といわれる。しかし、当然ながらそれ以外に少なくとも二つのもの、「触覚」よりもっと広範囲に及ぶ「身体感覚」と、広い意味での想像から生れる感覚、いわば「想像感覚」(予感とか妄想というようなものまで含めて)とを、付け加えるべきだと考える。それと、これも当然ながら、ここで「感覚」というのは脳に到達した段階までの物理的刺激のことではなく、それが脳による(総合的)判断となって行動、つまり「認識」となったものを指している。
 そして、例えば主に聴覚を働かせているときでも他の感覚が徒に眠っているわけではない事実を忘れてはいけないと思うのだ。たとえ眼を瞑って音楽を聴いていても視覚以外は働いているのだから、聴覚は(視覚以外の)すべての感覚と共に働いている。絵を描いている場合も、視覚は他のすべての感覚と共に働いている。人間の「感覚」はいつも多かれ少なかれ綜合的なものなのだ。どうやら人間の脳はそのように出来ているらしい。しかも江上越がまず画家であることを、あるいは画家でもあることを、失念してはいけない。
 つまり江上越の「言葉の誤聴」の試みは少なくとも視覚とは連動している筈である。彼女の「誤聴ゲーム」作品がほとんど、あるいはしばしばイメージ的なもの、そういう装置を伴う展示になっているのには理由がある。それは聴覚に生れる「誤聴」を強調したりするためもあるけれど、それだけではない。一つの感覚に起る「間違い=誤作動」は、人間の全感覚にその作用を及ぼす。
 江上越の「誤聴ゲーム」作品のきっかけは、北京で学んでいたときの個人的な体験に由来する。日本と中国は漢字を共有しているが、21世紀の現在ともなると、同じ漢字や同じ単語でも「音」で発音されると、双方で同じ意味とは限らない状況が生じている。そこに生ずる誤解や齟齬に、彼女は触発された。しかしそれだけだと、言葉の意味の誤解や齟齬だけの問題にすぎない。漢字という象形文字は、一つ一つの文字(漢字)にたいして歴史的に、また地方によって、多くの異なった読み方を形成してきたし、中国本土を出ればまたその読み方が変わるのは当然の出来事だった。
 そこから生じた「誤解」の問題は、これからも解決されることはないだろうし、悲喜劇を生み続けることだろう。逆に解決、ないし緩和の努力もまた続けられていくことだろう。ただ、エスペラント語も英語も世界を征服することはありえないし、そんな世界は御免である。土地と水と風土と空気が異なれば人とその言語は異なるし、そのことには理由と必然性と自然性があるのだし、多様性はいいことなのだ。
 美術家である彼女は、すぐにそのことに気づいた。そして「言葉の意味の誤解や齟齬」のレヴェルから、問題を大きく、もっと根本的な方向へと広げようとしてきている。
 その一つは、国や地域の違い、つまり文明・文化の違いを浮かび上がらせるという方向である。「誤聴」が生む多様性を積極的に認める方向、といってもいいだろう。「誤聴」が不可避である以上、それをプラスと捉える考え方だ。
 ちなみに、「人の顔」を描く彼女の絵画作品は、その考え方を視覚に持ち込んだ試みということができる。人の顔は不断に細かな変化をしている。「表情」と言われるのがそれだ。出入国管理官がパスポートの顔写真と眼の前の本人の顔とを見較べるのは、写真のようにそのままを写すと標榜する機械でも、人の表情の微細な変化までは捉え切れないからである。写真は一瞬しか捉ええないが、絵画は人の表情の多様性を描き得る。江上越の絵画は特徴や表情を誇張して描いていると見えるかもしれないが、そうではない。ワン・ショットでは捉え切れない人の顔を可能なかぎり綜合的に描こうとしている。「誤聴」に対応する「見誤り」を襞として織り込んで描いた作品なのである。だから、根本的には「誤聴ゲーム」と同じ方法に立っている、しかし絵画作品なのだ。
 もう一つ、ありうるかもしれないと僕が考える方向は、「聴覚」と「視覚」を結びつけた(連動させた、並置させた、背馳させた)作品によって同じことをこころみる方向である。夢想かもしれないが、僕はそんなことを考える。

《Dialogue beyond 400 years》作品现场-1

《Dialogue beyond 400 years》作品现场-1



Dialogue beyond 400 years》作品现场-2

Dialogue beyond 400 years》作品现场-2



海がへだてるもの、つなぐもの 近藤成一
ユーラシア大陸の真ん中では自動車も電車も右側を走るけれども、大陸の東と西に海を隔てて浮かぶ日本と英国では左側通行である。日本の左側通行は、近代的交通システムが英国にならって整備されたためにそうなった。英国と大陸の交通システムが異なるのは海が隔てたからだろうけれども、日本に英国の交通システムを伝えたのもやはり海だった。
 1600年、英国人ウィリアム・アダムス(William Adams, 1564-1620)はオランダの商船リーフデ号(De Liefde)に航海士として乗り込んでいたが、同船が日本に漂着したため、日本に上陸した最初の英国人となった。ちょうどこの年から260年余にわたって日本を支配することになる徳川家にアダムスは重用され、後半生を日本で過ごし、日本にイギリス商館を開設するのにも関わり、日本で亡くなった。
 1980年代にアメリカ・NBCが制作したテレビドラマ”Shōgun” はアダムスをモデルにしたものである。最初日本語を使えなかった主人公にとって、日本の事情はまったく理解を超えたものであったが、次第に日本語に慣れ、日本の事情を理解するようになる。その過程を英語を話す視聴者に追体験させるようにこのドラマはつくられている。
 江上越の作品に、海を映し、コミュニケーションの可能性を問うたものがあるという。海は江上の故郷千葉の海だという。江上は最近、千葉市芸術文化新人賞を受賞したのだけれども、授賞した千葉市長は江上に千葉の海をあつかった作品があることを喜び、千葉は東南西の三方を海に囲まれていると強調した。たしかにこの地域と他の地域を結ぶのに海上交通が大きな役割を果たした時代があった。
 江上のテーマの一つは「誤認」であるらしい。コミュニケーションの最初に誤認は避けられない。むしろ誤認を誤認と認識することが、正しい認識に通じる唯一の道なのかもしれない。江上の描く「誤認」はそういう誤認なのではないか。これもまたひょっとすると、江上を誤認しているのかもしれないけれど、そういう認識から江上の作品を鑑賞することを始めてみたい。

Dialogue beyond 400 years》作品现场-3

Dialogue beyond 400 years》作品现场-3



《Dialogue beyond 400 years》作品局部

《Dialogue beyond 400 years》作品局部



《Dialogue beyond 400 years》作品局部-2

《Dialogue beyond 400 years》作品局部-2



《Dialogue beyond 400 years》作品现场-3

《Dialogue beyond 400 years》作品现场-3



《Dialogue beyond 400 years》作品现场-4

《Dialogue beyond 400 years》作品现场-4



《Dialogue beyond 400 years》作品局部-3

《Dialogue beyond 400 years》作品局部-3



《Dialogue beyond 400 years》作品现场--5

《Dialogue beyond 400 years》作品现场–5



《Dialogue beyond 400 years》作品现场-6

《Dialogue beyond 400 years》作品现场-6



《対話400年 -江上越個展 / Dialogue beyond 400 years -Etsu Egami solo show》
アーティスト:江上越
学術支持:千葉成夫 (日本重要美术评论家)
近藤成一(东京大学名誉教授,千叶市艺术文化新人奖评委主席)
キュレーター:Antonia Huber(独立策展人,英国皇家艺术学院老师) Julia von Meiss
オープニング:2018.2.23 18:00-
展示会場:Playground London Curated place
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