えっちゃんの中国美大日記 第20回「中国油絵の文脈(1) 激動の時代を生きた美術教育者:葛鵬仁先生を訪問」

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時代と共に変化した油絵科
 最近始まった中央美術学院のプロジェクトで、重要な油絵科の先生とのインタビューと共に油絵科の歴史をはじめから整理する企画が始動した。その企画委員に私も幸い選ばれ、プロジェクトに参加することができた。
中央美術学院の油絵科には4つの工作室があり。第四工作室は1985年にできた、最も新しい工作室である。もっとも、第一工作室は古典、第二工作室は旧ソ連、第三工作室はルネサンス後から印象派の影響を受けている。その中で第四工作室の設立は歴史の影響を大きく受けているため、今回は第四工作室から研究を始める。1980年代のソ連の変動に伴い、中国の改革解放で欧米の情報が一気に中国に流入したため、多くの学生が当時の芸術のあり方に疑問をもち、写実ではなく西洋の新しい芸術表現方法を謳歌する運動が起こる。有名なのが1985年に起こった「85美術新潮」。欧米化への大きな時代の流れが後押しし、「中国民族的であり、西洋の現代美術の成果からの中国芸術の現代化」を目標とした第四工作室が油絵科にできた。

革新の障壁 -日本からの影響と第四工作室の設立

 この第四工作室が当初できたとき、主任は第二工作室から林崗、副主任には葛鵬仁が選ばれた。訪問の第一弾としては、第四工作室の教育方針の決定や授業など美術教育に多く関与し、功績の高い葛鵬仁を選んだ。
 葛鵬仁は1941年生まれ、中央美術学院付属から中央美術学院の油絵科、大学院まで進みその後学校に残り教鞭をとる。当時中国は文化大革命があり、多くの大学が募集定員縮小の中、油絵科も当初は7人の定員を4人に変更、葛鵬仁は首席の成績で油絵科に入る。後に第二工作室に入り、1969年に林崗とともに政府の企画で赤道ギニア国へ壁画を描きに行く。赤道ギニアに行く途中フランスで飛行機乗り換えのため、合間の時間をぬってフランスで見た当時の芸術を忘れられないと彼は話す。また1983、1984年に日本の東京や名古屋で展覧会を開き、平山郁夫などと交友を交わした。東京藝術大学の生徒の油絵の制作方法が平面の域を超え、コラージュやオブジェ的であることに衝撃を覚えたという。振り返ると、葛鵬仁が日本から帰った翌年に第四工作室はでき、その第四工作室設立に日本での経験や東京藝術大学がとても影響していると話していた。

葛鵬仁宅にて葛鵬仁先生と対談する王玉平先生、記者

葛鵬仁宅にて葛鵬仁先生と対談する王玉平先生、記者



批判と賞賛の「油画人体芸術大展」
 ソ連の影響が強く、大学の教育は造型の基本を教える、「写実が基本」という概念が強い中国において、比較的自由に創作できる第四工作室の設立は画期的だった。多くの中国国内の美術学院が第四工作室を真似て次々と設立していくほどだったという。また当時中国の美術出版本にはヌードの作品集がなく、ヌードに対して保守的な考えが多かった時に、葛鵬仁の提案で1989年中国美術館で「油画人体芸術大展」が開かた。この展覧会は多くのメディアをひきつけ、批判の中でも民衆の「ヌード」に対する考えに新しい見方を提案したといえる。

葛鵬仁の成果

1986年に欧州、エジプトを見に行った葛鵬仁は、当時のヨーロッパの現代美術をその場で体験し、その経験を中国で生かそうと中国美術界に変化を起こした重要な美術教育家である。そんな人から聞く当時の第四工作室設立のいきさつと困難さは、とても生々しく私の心に残った。
新娘 1982年作

新娘 1982年作


戯水図

戯水図


葛鵬仁先生を中心に左から王玉平先生、葛鵬仁先生の奥様、申玲先生、企画委員一行

葛鵬仁先生を中心に左から王玉平先生、葛鵬仁先生の奥様、申玲先生、企画委員一行



江上 越(Egami Etsu)
1994年千葉市生まれ。千葉県立千葉高校卒業後、2012年中国最難関の美術大学・中央美術学院の造型学院に入学。制作と研究の日々のかたわら、北京のアートスポットを散策する。ここでは北京のアート事情、美大での生活などをレポートしてもらう。